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ひで屋、5年10ヶ月後の平成27年8月末 閉店致しました、皆様 お世話に成りました。こちらのブログは暫く残しておきますので、御自分が写っている写真を取り込む等使ってくださればと思います
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先週は アップダウンの激しい1週間、、


週半ば、 水曜日  なぜか満卓、

20人近いお客さんを ひとりで こなし



翌日、木曜日

お客さん ゼロ! 0人!



金曜は 17名 貸し切り 送別会のため

お手伝い女子 2人お願いして 3人体制



土曜日は 六魂際で

早い時間 一気に満卓  10組近く 返してしまうも



翌 日曜日、   お客様 1人!




土曜日は、パレードの後 一気に店埋まり


食べ物 出るのが遅くなるなど

ご迷惑を お掛けしました


日曜日と 半分半分で 来てもらえてれば。。。




翌、月曜日、


罹災証明 高速無料パスを 手に入れたので



土曜日、 六魂際での 売り上げの一部を


原発で 観光客も減少してると思われる

福島県で、有意義に 使ってしまおうと

久し振りの 日帰り遠出


会津若松 飯盛山 白虎隊墓参&

白虎刀、くび振り赤ベコ 購入ツアーである




会津は 小学校の修学旅行以来 約35年振り



先週 たまたま

書棚から 白虎隊関連の 本を出し 読んだ事と


震災以降、宮城県の小学校では

会津若松への 修学旅行を

キャンセルしていると 聞きおよび



小学生の頃は 何も解らぬまま 来て

木刀を買って 喜んだだけであるが



後年 この様に 引き返し


勉強しなおす事が 有意義である





午後1時 会津入り




腹が減っては 戦は出来ぬ




一軒目に、
下調べしておいた 行列の出来るカツ丼屋へ向かったが
午後1時過ぎ、道順を聞こうと 電話したところ
”売り切れです”と 冷たい返事、、

路上で 通りがかりの 地元年配男性に
ソースカツ丼 オススメ店を聞いたところ
老舗 「 なかじま 」 を 教えられ 電話して直行



昭和初頭の リアルな染め付けどんぶり
ツギのあたった 藍染め暖簾が 良い味である

会津のソースカツ丼は 数種類有り
こちらは、ダシ、味醂、醤油等の替わりに
ウースターソース・ベースの煮汁で煮込み
卵で とじたもの


ビールも ご当地ラベル


 新鮮な味覚 当たりでした  お薦めです




腹を満たし、 いざ、飯盛山へ






白虎隊は、

ここ 飯盛山に着き

お城が 戦火に包まれている様を見て

落城を悲観しー自害、と 単純に説明している 書物もあるが

実際は、そう単純では なく



鶴ヶ城に戻って 敵と戦うことを望む者と、


敵陣に斬り込んで

玉砕を望む者 との間で 意見がわかれ

議論をしたようである



しかし、


飯盛山へ たどり着くまでの戦闘で

敵兵の 膨大な人数、

強力且つ最新鋭の火力を 身に染みて知る彼らは


負け戦覚悟で行動し

敵に捕まり ”生き恥をさらす”ことを 望まなかったので

自刃を決行した のである



現代の感覚では

納得出来ない人も 居るかもしれないが



白虎隊士は

藩中でも 上級武士の 子弟である



儀礼、作法、死に際の高潔さ等を 大切にし


さらに、15歳から17歳の 純粋な年頃



城は 黒煙に包まれ、周りは敵兵が充満


年長者の隊長 日向内記が 不在で

不眠不休、空腹のうえ 食料無し


重傷者も 複数居る等々

多くの 要素が重り



いたいけな 若武者達は


士族の節を 全うするべし という判断をとる様に

成らざるをえなかった のであろう






「 手傷負うモノ多く
  
  君公のいます鶴ヶ城は 既に猛火に包まれ

  城への道は 敵に侵され

  我々の務めも 早これまでである

  一同、潔く自刃して

  同僚の士と 黄泉に於いて再会しよう 」 
   





篠田儀三郎は

文天祥の詩を 高らかに吟じ


深傷に苦しんでいた 石田和助は これを聞くと

急に元気を出し 完爾として


「 人生古より 誰か死無からん、

  丹心を留守して 汗青を照らさん 」と 歌を つぎ


「 手傷が 苦しいから お先に御免 」

と いいざま  諸肌を脱ぎ

刀を腹に突き刺し 見事にこれを 引き回して

前に伏した


これを見た 篠田儀三郎も  遅れじと

ノドを突き 倒れ


普段仲の良かった 林八十治と永瀬雄次は

差しちがえて死のうと 互いに試みたが

永瀬は 深傷を負い力無く うまくゆかず

林は 傍らのものに 介錯をたのむ と叫ぶ


野村駒四郎 これを聞き  さらば と 後ろへ廻り

介錯すると 自らも腹を屠って倒れた



飯沼貞吉は

小刀を ノドに突き立てたが

首の骨に当たって 貫通せず

もう一度突き直す


それでも

切っ先が 首の後ろから出ないので


傍らにあった岩に 脇差しの柄頭をあて

刀の切っ先を 手探りで傷口に押し込み


岩の両側に生えていた つつじの根を 両手でつかみ

腕の力と 体重をあずけ 脇差しを 突き通した。。。



 




リーダー 篠田儀三郎 17歳の墓石

中央の御影石 南無釈迦牟尼佛は 逸外書とあり
妙心寺派前管長 梶浦逸外老師書か?

飯沼貞吉(貞雄氏)をのぞく 19人の墓石






”烈婦”は 近年 ナカナカ 使わぬ言葉であるが

力強く 味わい深い

会津藩 薙刀師範 中野竹子をはじめ

婦人隊は タスキ掛けで薙刀を振るい 猛戦するも

西洋式銃の前に 次々と命を落とし

また、二百三十余名の婦女子が 御城と共に自害







飯沼貞吉翁の墓と うた

ノドを突いた飯沼貞吉は
自分の子を探しに来た会津藩士の妻ハツに発見され
意識を戻し 蘇生した故
白虎隊の戦況、飯盛山での詳細が 今に伝わる

ほんの 数ミリのちがいで
太い血管が 損なわれなかった為であろう

当時の事は 一部の史家にのみ
それも かなり晩年に到るまで
語らなかったようである

後日、日清戦争に従軍中
危険だから ピストルを持参するよう促した者に

「私は、白虎隊で死んでいるはずの人間ですから」

と 笑って拒絶した エピソード等が残る

翁は 56歳の時
仙台逓信管理局工務部長に就任し
退職後も 仙台に居住
仙台市で亡くなり 御墓は仙台市内 輪王寺に






炎上している御城を望む像






昭和34年のままの装絵本 白虎隊と、
土井晩翠と会津 を 白虎隊記念館で購入




鶴ヶ城内に在る 武徳殿







ブログでは

書ききれない、会津史実




有能、純粋、誠実な 若武者


わずか 十五~十七年の 命


ただ、ただ  痛ましく


もったいない







その様な 戦争がおきた時代

大きな流れには 逆らえない現実であるが故に


今、この 平成の世


嗜好にふけり 我が儘を言い

だらだらと 生きてゆく事は


いかにも 恥ずかしく

申し訳ないことでは あるまいか



 内省  発憤すべし





戊辰戦争


奥羽越列藩同盟


会津戦争



白虎隊


飯沼貞吉  



興味の湧いた方は

信憑性のある 書物等をとられ


自国の歴史、


みずからの 存在意義 などについて

静考する機縁が熟せば 是幸い



白虎隊士 自刃の模様を 特に記述したのは

彼理由による








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HN:
渡邊秀樹
性別:
非公開
自己紹介:
ひで屋 5年10ヶ月お世話になりました、2015年8月一杯を以って閉店いたしました。
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